はじめまして。OKUです。
介護職9年目。現場のみに特化した介護職です。
今回は僕の自己紹介になります。
読んでいただけたら嬉しいです。
目次
【乳幼児期~児童期】
僕は、大阪府大阪市内の小さな病院で生まれました。
1歳を過ぎたころ、自宅でガスストーブの上のやかんをひっくり返し、頭から熱湯を被り全身大火傷を負い死にかけました。たまたま隣室が運よく看護師さんで、応急処置をしてもらいそのあと救急搬送して一命を取り止めることができました。
3回の外科手術を経て日常に支障は無くなりましたが、左肩~ひじにかけて大きな傷跡が今でも残っています。
この火傷が僕のアイデンティティにものすごく大きな影響を与え、長い間劣等感の根源になっていました。
4~5歳ぐらいになると、やんちゃで我が強い性格が出始めました。
年長の時に友達2人とスーパー万引きして見つかった時、逃げ遅れた一人を置いて逃げました。帰ったら僕と友達の母3人が待ち伏せしていて、その時僕は「あいつがお菓子盗んで捕まった!」と嘘をついて罪をすべて一人に擦り付けようとしました。
小学校に入ってからも、友達と遊ぶ約束をしていても気分が乗らなくなったら居留守を使ってブッチしまくってましたし、何度も万引きしたり、学校の体育館裏で火遊びをして放火未遂で校長室に呼ばれたり、低学年の頃はよく親に迷惑をかけていました。
本当に めんどくさがりで自己中で嘘つきな子供で・・・。そういう腐った人間性の部分は現在も根強く残っています。
でも一方で、とても内気で心優しい部分もありました。親戚が集まったりするといつも、大人しくてしっかりしている、冷めていると言われていましたが、下級生や小さかった従妹にはよく懐かれました。
火傷で残った傷痕を人に見られることが恥ずかしくて、強い劣等感が常にあって中身はいつも気弱でした。何よりもプールの授業は嫌で嫌で、逃げ続けて4年生以降は一度も入っていません。だから今でも泳げません。
とても両極端な2面性を持った子供だったと思いますし、今でもほとんど変わっていないと思います。
【転機になった小学6年生】
この1年間に大きな出来事が2つありました。
「母方の祖母の急死」と、「引越(転校)」です。
2つというより、流れで1つかもしれません。
僕は小学校に入ったころからおばあちゃん子で、連休や長期休暇はすべて祖母の家で過ごしていました。祖父は母が3歳の時に亡くなっているので、当時祖母は一人暮らしです。平時は普通に学校にも通っていたし、友達ともよく遊んでいましたが、基本的に僕は、昔から友達と遊ぶよりも家族で出かけるよりも祖母の家に行って一人でTVゲームをしているのが好きでした。
祖母は、日中は朝からお惣菜屋さんで働いて、夕方に一度帰ってきて18時から22時までは銭湯でパートで働いていたので、基本的には遊びに行っても一人で過ごす時間が長かったです。僕が朝目覚めた時には、いつもお小遣いをテーブルの上に置いてすでに働きに出ていました。
夜は、低学年の頃は18時から銭湯の仕事について行って22時までそこで遊んで入浴を済ませて一緒に帰ってました。高学年になると22時に行って入浴だけ済ませて祖母と一緒に帰ってました。
その祖母の家での生活リズムは、亡くなるまで変わることがありませんでした。何といっても小学生の僕にとって最も幸せな時間だったからです。今振り返っても、この時より幸福な時間はないと断言できます。
おばあちゃんの家に行く日が近づくと、楽しみで仕方なくて毎日カレンダーを見てカウントダウンをしていました。逆に帰る日が近づくと、嫌で嫌で夜布団の中で泣いていた記憶があります。
本当におばあちゃんのことが大好きで、親よりも何でも話せる唯一の存在だったように思います。
そして僕が6年生の5月のある日。
自宅の電話が鳴り、一人で留守番をしていた僕が出ると、祖母の家の隣人からでした。「おばあちゃんが倒れたから、お母さんの職場の電話番号を教えてくれる?」と尋ねられました。 番号を教えてから祖母の容体を聞きましたが、その方は気を使ってくれてあまり深刻なことは言わないでくれました。
まさか命が危ないなんて想像もしていなかった僕は、そのあと遊ぶ約束をしていた友達と一緒に釣りに出かけました。遊んでる間もずっと気になって仕方がありませんでした。
帰宅すると、ちょうど施錠して外出する家族(父母妹)と遭遇して、「おばあちゃんが危ないから今から病院に行く」と言われて、そのまま一緒に直行しました。病院に着くと、祖母はすでに昏睡状態で意識はなく、何度も呼びかけましたが、しばらくしてそのまま亡くなりました。脳梗塞でした。
その瞬間の物理的状況は覚えていますが、心理的な部分は言葉にできないです。涙が流れたのは確かだけれど、悲しくて泣いていたという感じではありません。そして、あの時電話のあとで遊びに行ったことをとても後悔しました。
「もっと早く会いに行ってあげてたら、おばあちゃんは助かっていたかもしれない。」と長い間抱え込みました。
この時期は本当にきつかったです。
時間が経つにつれて、
「心のよりどころが無くなったんだなあ・・・」
「あの幸せな時間はもう二度とないんだなあ・・・」
と、徐々に実感していきました。
そして3か月後の8月。
夏休みの後半に引っ越して、2学期から別の学校に通うことになりました。引越自体は祖母が亡くなる前から決まっていたことです。
元々通っていた学校には楽しく通える状態ではなかったし、ある意味気分転換にもなるので、不安がありつつも環境が変わることには前向きでした。
ところが、転校先の学校に馴染めませんでした。
いじめられたわけでもないし、トラウマになるようなエピソードもありません。ただ学校の雰囲気と自分の精神状態が重なったんだと思います。
不登校になりかけましたが、毎日おなかが痛くなりながらも通いました。
あまりにも辛くて修学旅行は欠席しました。6年の2学期で卒業が近いのですが、中学校もそのまま上がるだけの小さな地域だったので、中学卒業まで環境を変えられない状況でした。
転校してすぐに不登校になりかけたものの、その時の自分には通うしか選択肢がありませんでした。
この時期は両親のことを心の中で憎んでいたと思います。特に父に対しては、何度も転職して不安定だったので、軽蔑していたように思います。
でも一方では、自分の意志で環境を変えうるという発想はなく、「高校を卒業したら、一人暮らしをする。自分の力で生きていきたい」ぐらいに考えていたと思います。
自力で・・・と言いながらも親に依存しないと生きていけない現実とのギャップには、大学を卒業するまで苦しんだと思います。
この頃から幼少期のやんちゃな部分がほとんど消えてしまい、物静かで弱気な部分が人格の大半を占めるようになりました。
そのせいか、外面はとてもまじめそうに見られる反面、内面はめんどくさがりで活気がなく、冷めた部分がどんどん強くなってきました。
【一人暮らし、ぐぅたら大学生】
高校卒業後1年間の浪人生活を経て、大学入学と同時に19歳で一人暮らしを始めましたが、その後の4年間はひどいものです。
入学2日目でやめたくなりました。環境がこれまでと違い過ぎて、僕には華やかすぎて戸惑いました。
最初から授業にもあまり出席せず、サークルもせず、バイトも続きませんでした。結局4年間で4分の1も出席していないと思います。
目的を持たずに韓国へ短期留学をした際は、何も学ばずカジノで全額スッて帰国しました。ゼミは2回行って辞め、卒論も書かずに卒業しています。
親に依存して学費も払っていもらってたから、なんとか卒業しました。
【化けの皮が剥がれ、社会不適合者に】
就職は卒業前の2月に適当に受けて決まりました。不動産会社です。3回生でゼミをやめる時に、代わりに不動産関係の資格を取っていたので簡単に決まりました。
しかし丸1年で退職。内心は、僕はビジネスに興味がないし、お金をもらってもつまらない仕事はしたくないと思いました。
でも正直に自分の意見を言う勇気がなかったので、無理矢理に診療内科でうつ病の診断をしてもらって退職しました。
どうやったらうつ病と診断してもらえるか、ネットで検索していたことを覚えています。しかも自分から退職を言わずに、上司から薦められるように話を持っていく姑息な選択をするクズぶり。
そのあとはバイトをしながら正社員の仕事を探しましたが、なかなか見つからなかったり、就職しても1年も持たずに辞めてしまったり、ひどい時にはブッチして逃げたこともあります。
そうして年を重ねるにつれ、器用さが通用しなくなってきていました。誤魔化し続けてきたせいで、何をしてもスキルが一定水準以上に上がらず、しかもそれなりにうまく生きてきたせいで上達しようと努力もしない。だから伸びしろがない。
そして気づいたら20代後半・・・。
【福祉の仕事に出会う】
28歳になり、当時僕はビデオレンタルショップでバイトをしていて夕方から深夜までの勤務だったので、日中は割と時間がありました。将来への不安もあり、何となくヘルパー2級の資格を取りに学校へ通いました。
そしてヘルパーを取り終わってすぐに、ハローワークに行きました。その時点では福祉の仕事に絞っていたわけではありませんが、たまたま家から徒歩5分のところで新規事業所の立ち上げがあり、ヘルパーの募集をしていました。
主に身体障がい者と知的障がい者の自立支援で、施設型・在宅訪問・移動支援など総合的な支援を行う事業所です。
ワンルーム6室の賃貸バリアフリーマンションに訪問介護と生活介護が併設されていて、賃貸部分には、一人暮らしを希望される利用者が訪問介護を利用して生活するという珍しいスタイルでした。
未経験だったので仕事をイメージできないまま勢いで応募したんですが、即採用が決まって一週間後には働き始めていました。
ここで出会った上司、後輩、同僚、たくさんのことを諦め困難を受け入れてきた利用者さんたちと出会えたことが、僕の人生を大きく変えることになりました。
そして、初めて自分の人生に向き合い始めたように思います。
何でも他者や環境のせいにしていた自分自身に気づき、利用者さんの人生と自分の人生を重ねることが多くなり、深く考える機会も増えました。
頸椎損傷で20歳にして首から下が不随になった方、
自殺に失敗して下半身不随になり精神疾患も悪化した方、
軽度の知的障害で18歳になり施設を出られた方、
何回聞いても覚えられないようなドイツ人の名前が付いた難病の方もいました。
他にもいっぱいいます。
そのような状況を受け入れて生きている人たちを目の前にして、
「自分の人生はなんて薄っぺらいんだろう」と思うようになりました。
そして、これまでの仕事では得られなかった充実感を得られるようになり、この福祉の仕事に一生携わっていくことを決めました。